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遊気舎デヴィッド・ルヴォー惑星ピスタチオ|| 事業趣旨
1995年シンポジウム1996年ワークショップ舞台芸術総合センター(仮称)計画



パネル・ディスカッション



コーディネーター中根公夫プロデューサー
パネリスト河内厚郎文化プロデューサー・評論家
ディック・リー音楽家・プロデューサー
ジェラルド・吉富日米文化会館専務理事
高田公理武庫川女子大学教授
セルマ・ホルトプロデューサー

これからの舞台芸術と劇場

吉富
キーワードの一つに、「コンテンポラリー・ワーク」があります。舞踊や演劇といった分野の壁を越え、現代の価値観や問題、社会の流れを反映した作品を指します。
 二つめは「プレゼンター」で、作品を提供されるコミュニティと提供するアーティストの仲介役として、相互を育て、企画や制作を行うものです。今日の観客は、作品に様々なことを感じ、経験することで、作品との距離を縮め、作品自体に関わろうとしています。劇場は、求められている劇場経験に応じて考えられなければなりません。
 舞台芸術総合センター(仮称)で注目している点に、第一に、新しい芸術の創作の場となることがあります。過去の名作もですが、コンテンポラリー・ワークを示すことも重要だと考えます。プレゼンターや観客、アーティストには国際的な活動への参加が求められています。これは、従来の文化交流という形ではなく、新しい技術の活用や、組織の連携と協力の中で創造されるものです。
 第二は、市が運営することで、私的機関に比べ、より多様な作品を上演することが可能になると考えられます。芸術監督を一人置く方法をとらず、様々な分野から複数のプロデューサーを招くのは、多様なニーズに応えていく上で適したやり方です。
リー
 祖国のシンガポールは多民族国家です。私自身は、祖先が中国で生まれシンガポールで仕事をし、マレー人と結婚したというバックグラウンドをもっています。来日した5年前、日本人が「自分たちはアジア人ではなくて日本人だ」と考えているのにとまどいました。しかし鎖国の歴史を知り、近代以降の戦争を思うと、日本人はアジアの国々に複雑な思いがあるのではないかと考えるようになりました。日本は国際的な場ですが、国際化はまだ表面的なものにすぎません。もっと別の次元で、国際化を考えていく必要があるでしょう。
 ポップ・ミュージックの世界は、アジアで活動しても、西洋のコピーだと思われています。なぜこうした活動を始めたのか、自問してきました。そして、アジアは伝統的な表現から実験的な表現に大きなジャンプをして、とまどいがあるのではないかと考えるようになりました。われわれの世代は、自国の伝統と西洋の様式を合わせ持ちながら、アートの分野で葛藤しているのです。
 私は今、新しいアジアのアイデンティティーを求めASEANに注目しています。「伝統」と「西洋が私たちに何を教えたか」をポイントに考えていきたいと思っています。
河内
 近世になり、経済力をもった市民人口のストックができると、都市における常打小屋での見せ物が可能になり、興行が成立しました。興行資本は京都、大阪、江戸、中でも大阪において独自に成立し、道頓堀の一画に「からくり」劇場を作った竹田一族のようなプロデューサーを輩出しました。この頃は、現在古典と言われている文楽や歌舞伎もサブカルチャーで、面白がらせるものが盛り込まれていました。今に残るような名作は、数年に一作、生まれるぐらいでした。
 興行街の成立に大事なことは、そこへ行けば何かハプニングがあるという魅力であり、それがあったのです。芝居町(道頓堀)以外では、名残で今は何々新地と呼ばれている当時の開拓地の勧進相撲なども、イベントとして成立しました。
ホルト
 劇場内外で起こる周辺活動も、雰囲気の醸成やインフラ整備を促す点で重要だと思います。しかし、レストランや周辺活動がどんなに素晴らしくとも、クリエイティブな活動センターとならなければ意味がないことを、警告したいと思います。逆に、公演自体が素晴らしければ、劇場のアメニティが低くても観客はいっぱいになり、満足するのです。
 クリエイティビティを保証するためには、複数のプロデューサー制においても、プロデューサーを選んだり、方策を立てる委員会もクリエイティブな人達によって形成されなければなりません。本当の生命が感じられるようなすばらしい活動の真ん中には、常にクリエイティブな人たちがいるのです。
高田
 「物事を分けることによってわかる=認識できる」という考え方は、過去100年ぐらい強烈な影響を与えました。しかし、文化は正確に分けられるものではなく、マージナルな部分があって、ある種の共同、協力をすることによって進化してきたのだと思います。
 現在は、近代以降に分けてきた物事を、もう一度、われわれの生活の中で融合し、楽しみ直そうとしているのではないかと思います。それは「これから芸術の創造については共同制作が非常に大事なのだ」と言う言葉につながります。「今までジャンルに分かれてきたもの、あるいは様々な文化の要素を融合して、コンテンポラリー・ワークを新たに創り出す」のです。
 文化の融合と再生、そういうことを可能にする場所性、ダイジェストする場所性、トポスとして非常に活力のある街、おそらく大阪にはこれが求められており、かつ可能な街だと思います。
中根
 演劇という概念を当時のヨーロッパの主流だった台詞劇として取り入れた明治時代の前、大多数の芝居は音楽と踊りがついた、総合的なパフォーミング・アーツでした。アジアの芸能は全体的に総合パフォーミングアーツの要素を持っています。最近、舞台芸術は総合的、様式的なものであって、必ずしも西洋近代のリアリズムだけが演劇ではないと言う声が聞かれます。ここでの西と東も含め、対立的な概念で舞台芸術を語る時代は過ぎたと思います。
 東京で語られる文化交流とか新しい施設をどうするかという場合、エンターテインメント性を忘れ、芸術的あるいはモニュメンタルなものという語られ方が非常に多く、玉三郎さんが批判したような劇場を生んでしまうわけです。  舞台芸術総合センター(仮称)では、どんな建物をつくるかではなく、大阪で何をやるかを先行させ、そのイメージが見えてきたら、ふさわしい建物を建てようという議論がされてきたわけです。
 サブカルチャーとカルチャーとが直結していて、総合的にダイナミズムを持ち得るという場が大阪であり、舞台芸術は文化相互に影響しあい、国際的なものとして成長し、成立するものだと思います。
 多様な文化を並列させている大阪は、国際的な舞台芸術を、自分の伝統を考えながら成立させるという大命題を実行するには、実に適した風土ではないかと思います。

プロデューサーの役割

吉富
 プロデューサーは、必ずしも自身が物をつくるわけではありませんが、コミュニケーションや共同作業を促し、可能にする人を意味します。ソフトとハード、異なる文化、様々な分野をつなげて事をおこす人間として求められます。
 アメリカではスタッフが細分化されています。舞台芸術の表現形態が多様化し、ステージも広くなり、1人が全ての知識をもって統率することができないため、各分野に専門のアシスタント・ディレクターを選び、そのエネルギーを結集してプロデュースを行うからです。
リー
 シンガポールには興行文化はありますが、小劇場が行う実験的な作品が商業ベースに乗らないという問題があります。彼らは専業ではなく、公演準備に長期間をかけても短期間しか公演できませんが、好きでやっていることだからと、商業的な方向には進みません。
 東南アジアでは、個人が独立してプロデューサーになることはなく、すべて会社です。私の場合は劇団をつくって、プロデュース
していますが、スポンサーを見つけるのが難しく、それ以外に方法がないからです。
河内
 舞台芸術は、音楽、舞台美術、脚本など多分野の参加者のトータルで作られるので、一つの世界を磨き抜いた「芸術家気質」だけを押し通しても観客が逃げてしまう面があります。理想の舞台芸術は、最も高貴なものと最も下世話なものとの巨大なる結合を果たすことです。
 プロデューサーも、あるビジョンを延々とやっていくのではなく、常に感性を磨き、大衆というものを観察して、次の時代の新しい素材を見つけなければなりません。
ホルト
 プロデューサーは、何か活動を行っていく人です。作品やアーティストを選び、お金を集めて、それらの責任を負うのです。しかしこの10年間は、資金を集めマーケティングを行う役割が強くなり、創造性のある方面から急激に遠ざかっており、非常に残念です。舞台芸術総合センター(仮称)の規模になると、わずらわしい仕事が出てきます。何にも手をつけながら、どれも仕事にならないということのないよ
う、プロデューサーがやらなくてはいけない仕事を見極めなければなりません。
高田
 プロデューサーの基本的な意味は「生産者」ですが、舞台芸術の場合、クリエィティブな能力と同時に、評価ができる人でないと具合が悪く、制作者と同時に第一消費者でもあります。
 近代以前、絵画は工房に多くの職人を抱えて描かれていました。1人で独創的に描くことが重視されたのは18〜19世紀の特徴で、最近では、ビジュアル・アートや書物の世界でも共同制作やエディターが評価されています。現代の芸術にとって、独創を過大視せず、制作者であり同時に第一消費者であるような立場を受容するシステムこそが、重要な意味を持ち始めていると思います。
中根
 日本では、芸術家が自分の思想で劇場を運営していくという芸術監督の考え方が定着したかに見えます。芸術家と自称する人の芸術性は往々にして非常に狭いということがあります。
 舞台芸術総合センター(仮称)のケースは、誰々の芸術だけをやるというものではありませんからプロデューサー制にしたのだと思います。
 日本ではプロデューサーというのはあまり理解されてませんが、アメリカにおいて典型的に成立したと思います。
 例えば、ジョセフ・パップという人は、ニューヨークの観客にシェークスピアを定着させるために、長年、夏のニューヨーク・シェークスピア・フェスティバルをやり、成功していました。また、小さな劇場を市から提供してもらい非常に地道なレパートリーをやっていました。その中の1本が「コーラス・ライン」で、当たったので、ブロードウェイにもっていき大成功させ、映画にもなったわけです。
 日本から見えている部分では非常にコマーシャルですが、聖と俗を総合的にダイナミックに進めていったプロデューサーの典型だと思います。

舞台芸術総合センター(仮称)の活動

吉富
 舞台芸術総合センター(仮称)が開館して、十年後につくりだされる作品を予測することは無理ですが、方向としては、共同作業による異文化やさまざまな分野が結集した集学的、学際的なものが出てくると思います。
リー
 舞台芸術総合センター(仮称)は、多くの交流を重ねてプログラムをつくること、例えば東南アジア諸国の人たちがワークショップをして、上演するような試みができるのではないかと思い、大変前向きでエキサイティングだと感じています。劇場における新しいアイデアや視点を発見するには、商業的なポップ・ミュージックの世界の人間と一緒に仕事をしたり、子供たちを巻き込んでいくのも面白いでしょう。
河内
 夢は、音楽劇の要素が大きいアジアの舞台芸術を、楽劇として見直すことです。大阪には、戦国時代に到来した三味線を消化し、日本の音楽劇の基礎となる義太夫節をつくった過去があります。明治以降に入った西洋音楽も、関西では、亡命した東欧の音楽家を受け入れた経緯から、演歌にも通じるマイナーな叙情を歌いあげるようなメロディーが大衆化されたように思います。日本が西洋音楽を受容して100年、また東アジアの文化の流れにも則りながら、新しい劇音楽、音楽劇をつくれないだろうかと考えています。
ホルト
 将来の事業の内容については、具体的に語りたいとは思いません。舞台芸術は次に何がおこるかわからないのです。ただ、若い人たちが新しいものを積極的に試みることができる場、失敗してもかまわない場を提供することを望みます。質の高いものを提供できれば、どういった形態の芸術であれ、十倍の見返りとなって返ってきます。幸運を祈ります。
中根
 舞台芸術総合センター(仮称)で何をするかは、誰にもわからないと思います。  伝統や、入ってくる情報を元に、地方の人たちや外国人を受入れ、大阪人のバイタリティーとともに、新たな未来的な「るつぼ」をつくり、実験をし、新しい舞台芸術をつくっていくのだと思います。劇場で人が働き、任命されたプロデューサーが企画を立て、演出家や作家と語らい、具体的な舞台芸術が生まれ、初めて答えが出ることだろうと思います。
 今、こういうものがやられると分類され語られるような劇場では、全国で過去に建てられた公共劇場のように、他でつくられた既成の舞台芸術を受入れる受け皿でしかありません。
 今、わからないからこそ、価値がある劇場になると思います。
 日本の国際性はまだまだ未熟です。ドア窓から覗くのではなく、きちんと中に入れて話し合い、自分も外へ出ていく、そういう国際化が必要です。そのためには、典型的な作品を外国に持っていって評価されたとか、あるいは海外から作品を持ってくるだけではなく共同作業が必要だと思います。
 昔、人が自由に行き来した時代の国際性の中から出てきた新しい舞台芸術としての歌舞伎、文楽を考えると、大阪で、多文化を入れ、他の国の人たちに来てもらい、この劇場で一緒に仕事をすることにより、新しい舞台芸術を創造する、こういう作業のための場になっていただきたいと思います。
(プロフィール)

中根公夫/プロデューサー:

パリ国際演劇大学卒(文部省派遣フランス政府給費留学生)、パリ国立オペラ座にて3年間の研修。1971年より東宝(株)演劇部プロデューサーとして帝国劇場、日生劇場、芸術座、東京宝塚劇場などで演劇・ミュージカル・レビュー等を製作。1974年には演出家・蜷川幸雄を東宝に招き、以降「王女メディア」「近松心中物語」「NINAGAWA・マクベス」など全作品を製作、1983年以降は海外公演を推進。1987年ポイント東京叶ン立。現在は国際舞台芸術交流センター事務局長として国際交流を推進するとともに、東京国際舞台芸術フェスティバル代表プロデューサーに就任。

ジェラルド・吉富/日米文化会館専務理事:

スタンフォード大卒。前全米芸術基金(NEA)小委員会議長、カリフォルニア芸術評議会、ロサンゼルス音楽センター運営会社及びインデペンデント・センター(非営利団体へのアドバイザリー・グループ)のメンバー、日米文化会館専務理事としてアジア・太平洋と米国を結ぶ文化行政、文化振興の推進役として活躍。1992年より「日米舞台芸術交流コラボレーション・プロジェクト」を推進。

ディック・リー/音楽家・プロデューサー:

シンガポールに生まれ、クラシック音楽の音楽教育、ロンドンのデザイン・スクールへの留学を経て、デザイン、音楽、プロデュースなど多くの分野でアジア全域を拠点に活動するマルチクリエーター。
 1988年にシンガポール初のオリジナル・ミュージカル「ビューティ・ワールド」の作曲を行い、以降、「香港ラプソディー」「ファンテイジア」などの舞台で音楽を担当する。また、1997年に大阪で開催される「なみはや国体」のテーマソング「WE CAN CHANGE THE WORLD」の作詞、作曲、歌唱も担当している。

河内厚郎/文化プロデューサー・評論家:

一橋大学卒、舞台芸術学院卒。ショーシアター活動の傍ら、評論家として執筆活動に入る。1980年代に関西に戻り、以降、自治体の文化行政への参画、フェスティバルのプロデュースなどを行い、1991年度「咲くやこの花賞」を受賞。現在、宝塚造形芸術大学、大手前女子大学、神戸山手女子短期大学の講師、ほかNHK近畿地区番組審議員を務める。著書に『街は劇場』、対談集『関西弁探検』、共編著に『阪神学事始』『天神祭』などがある。

宛先・お問合せ先

大阪市市民局文化振興課「ワークショップ」係
〒530 大阪市北区中之島1ー3ー20
TEL. 06-208-9167

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