[舞台芸術ワークショップ・大阪 ホームページ]
遊気舎デヴィッド・ルヴォー惑星ピスタチオ|| 事業趣旨
1995年シンポジウム1996年ワークショップ舞台芸術総合センター(仮称)計画

コンポーザー・ワークショップ
−アジア発 ミュージカル制作のための
序曲(オーバーチュアー)−

ディック・リー/音楽家・プロデューサー


 受講者の募集にあたり、講師が事前に受講生の作品を聞いておけるよう、自作のラブソングのテープを提出するという形をとった。講師からは、3分半程度の短いもの、メジャーキーのバラードという条件が出され、歌詞の有無は問わなかった。
 ワークショップは公開とし、見学者も事前に募集した。
 ワークショップの前半は、講師が、生い立ちや影響を受けた音楽、今までの仕事などを紹介し、自分の作品づくりの背景を語った。
 後半は、講師が自分の方法論を紹介した上で、受講生の作品をピアノで演奏しながら、コメントを加えるかたちで行われた。

マイ・ストーリー

シンガポール
 祖国・シンガポールは、中国系を中心とした多民族国家です。独立した30年前、当時の政府は民族対立をさけるために、アジアでは珍しく英語を共通語に制定するなど面白い政策をとっています。
 私の祖先は、現在のシンガポールの基礎を作った中国からの第一次移民で、祖父は経済界で活躍し、多くの英国人と交流する贅沢な人でした。私も英国式の教育を受けましたが、14才で渡英した時に全く受け入れられず、初めて、自分は黄色人種なのだということを思い知らされました。今でも自分のアイデンティティには混乱しています。私の仕事の多くは新しいアイデンティティを見つけるためのものです。
 1970年代、アジア諸国の多くが政治経済の問題を抱える中、日本だけは幸せな事に文化的侵略を受けることなく、伝統と現代を融合させて発展し、そしてアジアから離れていきました。我々はアジアの文化に囲まれています。扉を開ければすぐそこにあるアジアの文化を仕事でも有効に使いたいと思います。
 シンガポールにはアジアの他の旧植民地のような外国人居住区がなくインターナショナルな雰囲気があります。日本では欲しいものが世界中から手に入りますが国際的ではありません。本当に英語の話せる人がほとんどいないのは、国際化を目指す熱意に欠けている現れではないでしょうか。

私の音楽
 私は、家族それぞれの好みを反映して、クラシック・ジャズ、中国のポップ、クロンチョン(アジアフォークを取り入れたポップ)が共存する中で育ちました。西洋のポップに出会ったのはローティーンの頃で、メロディーとコードの美しさに影響を受けました。また、ピアノの弾き語りは、クラシック音楽の勉強をしていた私にぴったりのスタイルとして、うれしい発見になりました。
 ロック、ポップなど、その時々に流行した音楽を少しずつ触りながら、結局はメロディーラインを重視するポップソングに戻りました。バンドを組み、アレンジや作曲を手掛けながらコンテストに応募する内、テレビのオーディション番組にゲスト・アーティストとしての出演を誘われました。何回か続けて無理に新曲を作るうち、英国に住んだ事もない自分が英国風の味つけで作曲する意味を自問するようになります。
 そこで、自分なりの「シンガポール・ソング」を歌ったのですが、それがレコード会社の目にとまり、17歳で初アルバムをリリースしました。
 その後、兵役に着いた時には、興行部に所属することになり、企画やプロデュース、演出を経験しました。
 除隊後は4年間のイギリス留学を経て1980年代にレコード活動を再開。この頃、シンガポールの文化は英国より、アメリカの影響を強く受けるように変わっており、一般の人々はマイケル・ジャクソンを望んでいました。しかし私は姿も声も黒人ではありません。黄色人種なのです。
 シンガポールが経済的に成功した1985年頃から、政府は国民に誇りを持たせ、国のアイデンティティを確立しようとキャンペーンをはじめ、1988年頃には成果があらわれてきます。この年、私は最初のミュージカルを上演し、すばらしい反応を得ました。

アジアのアイデンティティー
 初来日にあたって日本のマスコミが私をアジアのポップ・カルチャーのリーダーと謳ったのは、音楽を通じて日本をアジアに向ける責任を感じさせてショックでした。また、西洋では中国人も日本人も同じくアジア人として扱われることを通じ、アジアとは何かを考えるようになりました。シンガポールはアジア諸国に囲まれており、作曲にも文化的影響を受けています。そこで、民謡を作曲に活かすことを考えました。音楽を通じたコミュニケーションです。
 また、日本がアジア諸国を占領した時代、日本語を覚えさせるため、日本語として意味は通っていないけれど、簡単な単語を並べた歌を普及させました。私は、占領下の暗い時代に歌っていたその歌が明るいことに感激し、アルバム「エイジア・メイジア」にこの「日本語ルンバ」を収録しました。しかし、曲の背景を知らない人にとっては、意味のない日本語を歌うナンセンスな曲としか受け取ってもらえませんでした。戦争は日本とアジア諸国の理解を妨げるバリアーを築いてしまったと思います。しかし私たちの世代は相互のコミュニケーションよって、バリアーを無くすことができます。私は音楽を通じてコミュニケーションを図ろうとしています。
 「エイジア・メイジア」の発表後は、「西と東」について考えるようになりました。外が黄色で中身の白いアジア系アメリカ人が「バナナ」といわれていますが、私自身もバナナではないかと思うようになったのです。そして1990年以降、アジアの国々を回りながら、いたる所にバナナがいることに気づきバナナ・カルチャーが新しいアジア文化ではないかと思うようになりました。
 ミュージカル「ナガランド」は、二面性を持った男の自分探しの物語で、西洋人としての中身しかないと思っていたのが、深いアジア人のルーツを発見する話です。
 この作品の後、メッセージをより効果的に伝えることができるミュージカルに傾倒しました。いくつかの作品づくりを通じて、西と東を分裂した2つの孤立したものと考える必要はなく、融合した「WEAST」として考えること、これこそが、新しいアジアの文化になり得るのではないかと考えるようになりました。これは以前には全くなかった新しい概念です。よそから取ってきて何かを作ろうとしても−例えばポップソングに和琴を入れても日本の音楽にはならないように−表面的なもので終わります。そんなことは西洋人にだってできるのです。「WEAST」のように、自分自身の経験から生まれた精神による新しいコンセプトに基いてこそ、はじめてオリジナルなものが創れるのです。コピーは、学ぶ上でのプロセスなのだから悪いことではありませんが、音楽のために作曲するのでは音楽以外に得るものはありません。それで十分という人もいるでしょうが、ここにいる皆さんは満足しないだろうし、私も満足しません。

−休憩−

コンポーザー・ワークショップ

 繰り返しやイントロなど印象に残る部分、人の心を捕まえるための「フック」は最も重要です。フィギアーと呼んでいる曲の中心はイントロをはじめ何回も出てきますが、これがフックになることもあります。また、コード進行とメロディも大切です。コードを変えるとイメージが変わるので、私はコード展開から作曲をはじめ、メロディーを加えていきます。そうして作られたパートが、ABCの3つぐらいのブロックに分けられ、各々がリスナーに聞き分けられることも大切です。

受講者の作品へのコメント
・ポップソングには明確なイントロを作る方が好ましいでしょう。
・最初から最後にかけて徐々に盛り上げ、最後のパートで一番強い印象を与える方が、何段階にも分けて盛り上げるよりも効果的です。
・途中で、パーンと扉を開けて大きな部屋に移るような衝動が感じられるとドラマティックになります。さらに、盛り上げたあとスッと下げて終わると聞きやすい印象が残ります。
・聞き手を誘い、別の世界に連れて行くのが作曲家の仕事だと思います。最初と異なるキーで終わったり、フックとイントロで拍子を変えるのは混乱を与え、リスナーを引き込みにくくします。また展開するばかりでなく元の場所に連れ戻すと心地よいでしょう。
・イントロにフックをもってきたり、音調を少し変えるところを作ると聞き手を誘いやすくなります。
・1オクターブ半は歌唱音域として広いので、1オクターブ、プラス2音程度で収める方が歌いやすくなります。

(プロフィール)

ディック・リー/音楽家・プロデューサー:

シンガポールに生まれ、クラシック音楽の音楽教育、ロンドンのデザイン・スクールへの留学を経て、デザイン、音楽、プロデュースなど多くの分野でアジア全域を拠点に活動するマルチクリエーター。
 1988年にシンガポール初のオリジナル・ミュージカル「ビューティ・ワールド」の作曲を行い、以降、「香港ラプソディー」「ファンテイジア」などの舞台で音楽を担当する。また、1997年に大阪で開催される「なみはや国体」のテーマソング「WE CAN CHANGE THE WORLD」の作詞、作曲、歌唱も担当している。

宛先・お問合せ先

大阪市市民局文化振興課「ワークショップ」係
〒530 大阪市北区中之島1ー3ー20
TEL. 06-208-9167

go TOP of this page / go PREVIOUS page / go NEXT page

go BACK to 95 Symposium homepage

go BACK to WorkShop homepage

Performing Arts Symposium Osaka 95 Page (5.composer workshop)
http://web.kyoto-inet.or.jp/people/cdikyoto/ws/95comp.html
homepage designed by makita@CDI at 28 May 1997.
Contact makita by email.