CDI小史

(文責:疋田正博)(最終更新2013年8月20日)

1 設立の経緯・3人の出会い

 当社の沿革を、当時まだ入社していなかった筆者は伝聞でしか知らない。しかし、初代所長の加藤秀俊、会社設立をもちかけた当時京都信用金庫理事長の榊田喜四夫氏(故人)から以前聞いた話によると、直接のきっかけは榊田喜四夫氏から加藤秀俊への相談だったようである。
 1970年4月、業界最年少(42歳)で京都信用金庫の理事長に就任するに際して、榊田喜四夫氏は、長年いだいてきた「コミュニティ・バンク」の理想を実現するために、それまでの信用金庫が一般的にもっていた泥臭いイメージを一新して、ロゴ・マーク、通帳、制服、店舗などあらゆるデザインを、スマートで清新溌剌としたものにしたい、優秀で洗練され国際的な人材を金庫職員として育てたい、自分の理想をバックアップしてくれる学者・文化人ブレーンを持ちたい、という希望をもっていた。どうしたらいいか、その相談を以前から親交のあった加藤秀俊にもちかけた。
 「コミュニティ・バンク」の理想というのは、ひとことで言えば、信用金庫は、全国レベルの活動をしている株式会社組織の銀行と違い、あるいは単なる中小企業金融機関でもなくて、限定地域の協同組織として、地域の企業と庶民の金融にかかわるあらゆるニーズに応えていくサービスを生み出すことによって、地域経済を守り地域の文化を育てていくオルガナイザーになるべきだ、という考えである。今日ではこうした理想を掲げる地方の信用金庫リーダーが各地に見られるが、信用金庫というものを、そういう理想で語るひとは当時にはなく、榊田喜四夫氏が唯一の全国的なオピニオン・リーダーであった。
 加藤秀俊は一橋大学を卒業のあと、1953年から京都大学人文科学研究所に在職の後、1969年教育学部に助教授として移った。当時まだ30代の終わりであったが、すでに『中間文化』『マス・コミュニケーション』(いずれも1957年)、『テレビ時代』(1958年)、『比較文化の視角』(1968年)などの著作、D・リースマンの『孤独な群衆』(1964年)『何のための豊かさ』(1968年)の翻訳など、数多くの著作・翻訳があり、評論活動でも活躍していた。しかし、折しも全国に吹き荒れる学園紛争の嵐が京都大学にも飛び火し、大学と学生の争いを無意味と感じた加藤秀俊は京都大学をあっさりと辞め、個人研究室を開設して、研究・執筆活動をしていた。そしてその傍ら、1970年の日本万国博覧会や、未来学の国際会議に関係していた。
 その二人のどちらからシンクタンクを作ろうという話が出たのか聞いていない。ちょうど日本ではシンクタンクの設立が相次ぎ、第1次シンクタンクブームとよばれる時期でもある。どちらからその話が出ても不思議はない。そして加藤秀俊はシンクタンクの設立の相談を、日本万国博覧会や、未来学会などで、つきあいの深い梅棹忠夫(当時京大教授)、小松左京(作家)、川添登にもちかけた。
 川添登はその当時44歳であったが、早稲田大学卒業後、今和次郎の助手をつとめたあと、『新建築』の編集長をへて、日本で初めて建築評論家として身をたて、インダストリアルデザイナーの栄久庵憲司、グラフィックデザイナーの粟津潔、建築家の大高正人、菊竹清訓、黒川紀章、槙文彦らとともに、「メタボリズム」というデザイン運動を1960年に起こしていた。メタボリズムというのは生物の新陳代謝ということであるが、都市や建築を生物のアナロジーで考え、環境の変化に応じて主体的に新陳代謝をしていけるようにデザインしておくべきだというアイデアである。こうしたデザイン活動とは別に、日本文化に関する評論・著作も活発に行っていたが、それが京大の人文科学研究所のリーダーである桑原武夫先生に評価され、加藤秀俊に引き合わされた。その親交が日本万国博覧会のテーマ委員会や、未来学研究会(林雄二郎、梅棹忠夫、小松左京、加藤秀俊、川添登)、国立民族学博物館の設立構想など、さまざまの共同作業につながり、そしてCDIの設立にもつながっていった。
 すなわちCDIは、京都信用金庫の理事長榊田喜四夫氏の肝煎りで、加藤秀俊とその友人である学者グループと、川添登とその友人である建築家・デザイナーグループによって株主が構成され、1970年10月に発足したのであった。CDI(コミュニケーションデザイン研究所)という命名も、中心になった榊田喜四夫・加藤秀俊・川添登の3人の相談で決められたようである。加藤秀俊はコミュニケーション論、川添登はデザイン論で名を成していたが、単にふたりの専門を併記したのではなく、これからやろうとすることはすべて「より良いコミュニケーションをデザインする」という言葉で包括できると考えたからである。場所は京都の中心街、河原町通りと御池通りの交差点の南東角、北に京都ホテル、北西に京都市役所がある一等地にたつ京都信用金庫河原町支店の7階であった。京都信用金庫はマネージャーと総務部長を送り込んできた。マネージャー(三上正・故人)は若くして京都信用金庫の支店長を経験したが、他方、ダンスの名手であり、ファッションにも凝るユニークなひとであった。初期の研究員には、木内義勝(現在松本大学教授)、波多野進(現在京都学園大学経済学部教授)、下坂守(現在奈良大学文学部教授)などがいる。初期の仕事としては、京都信用金庫の空間計画(店舗設計から制服、通帳、ステーショナリー、ポスターなどあらゆるデザイン監理)、京都コミュニティ研究、『コミュニティ・バンク論』『京都庶民生活史』(いずれも京都信用金庫50周年記念出版)、京都経済同友会の京都の都市計画提案、「キャッシュレス社会の展望」(立石電機)、住友ビジネスコンサルティングから受託した『日本1980』、ワコールの支援による「日本のマスコミ研究書アブストラクト」の作成(のちハワイ大学から英文出版)、ワコール25周年記念出版詩画集『美しく美しくより美しく』、「大規模地方中核都市としての福岡の歴史的文化的発展動態研究」(建設省都市局)などがある。

2 文化行政研究のパイオニア

 京都信用金庫のコミュニティ・バンク論の実践として、店舗の営業スペースをできるかぎり地域社会の文化活動に提供しようという志向があった。そのときのバイプロダクトとして、地域の文化活動を支援するシステムはいかにあるべきか、という議論が内部でかなりなされていた。他方、東京で民間シンクタンクの育成支援をする国のシンクタンクとして「総合研究開発機構(NIRA)」が発足し、その理事に就任した梅棹忠夫(当時国立民族学博物館館長)は、文化行政システムの研究こそ急務と示唆した。当時、文化はいわば「ワタクシゴト・私事」で、教育委員会が所管する社会教育行政以外の芸術活動などに、行政があまり手出しすべきではないという風潮が強かった。それに対して文化は国や自治体が責任をもって振興すべき「公事」だという主張である。その文化行政の現状と問題点、あるべきシステムの研究をするという仕事をCDIが受託することになった。その成果が『地域社会における文化行政システムの研究』(1975年)であり、それがはからずも全国の文化行政ブームの火付け役となった。これがきっかけとなってCDIは、文化庁の国立文化施設整備に関する調査や、文化行政の国際比較研究(1979年、1998年、2000年、2001年)、国土庁の文化をテコにした地域振興策の研究、大阪市、京都市などさまざまの自治体の文化振興計画の立案、文化をキー・コンセプトにしたイベントの計画、大規模公園の構想、地域計画、あるいはホールやミュージアムなど文化施設の基礎調査・基本構想・基本計画の仕事などを多くするようになり、「文化」を得意科目とするシンクタンクになっていった。
 文化イベントとしては「神戸ポートピア」1981「筑波科学万博」1985「三重世界祝祭博」1985「香川瀬戸大橋架橋博」1988「横浜国際フェスティバルYES」1989などの構想立案や、現代衣服の源流展協賛シンポジウム「20世紀の様式」1975、京都商工会議所100周年記念シンポジウム「未来技術と人間社会」1982「建都1200年記念・伝統と創生フォーラム」1994 をはじめとする大規模なシンポジウムの実施、「世界コミュニケーション会議」1983 や「世界湖沼環境会議」1984 などの大規模な国際会議事務局としての働きなどがある。
 文化をキー・コンセプトにした地域計画としては、岡山中部高原地区の計画(1981年〜)が古く、横浜いずみ田園都市の計画(1991年)、和歌山県橋本隅田地区の計画(1996年)、神戸学園南地区の計画(1997)年などがそれに続き、その最大のものが1996年から2001年にいたるまで、審議会のサポートから、市民参加のサポートまで広くかかわった、京都市の基本構想(グランドビジョン)・基本計画である。
 ホールの基本構想としては名古屋の都心にできた「愛知芸術文化センター」、大津にできた「びわ湖ホール」、大阪中之島にできる予定の「舞台芸術総合センター」などがあり、ミュージアムの基本構想としては「川崎市民ミュージアム」「広島市現代美術館」「琵琶湖博物館」「京都市歴史博物館(計画中)」などがある。そのなかに一連の平和ミュージアムの仕事がある。これらは、大阪府と大阪市が共同で作った「大阪国際平和センター(ピースおおさか)」の構想のサポート(1985年)から始まった。この仕事では、建築の国際コンペ(1988年)の事務局や、「世界平和ミュージアム交流会議(1991年)」の国際会議事務局までつとめた。その会議に集まった各国の平和ミュージアムの館長たちから、「ピースおおさかとこの会議の開催は日本の良心の現われである」と称賛された。その実績を買われ、滋賀県、奈良県、愛知県などで、戦争を思い起し平和を希求する同じ趣旨の活動を、さまざまの形(文献収集、ビデオライブラリーの作成、体験談集の編集、小展覧会の開催、バーチャル・ミュージアムなど)で行ってきている。
 CDIは文化ストックの活用方策の研究に関しても、さまざまな実績をあげてきた。「みちのく山形ものがたり」(1983年)、「近江歴史回廊計画」(1992年)、「阿波歴史文化回廊」(1996年)、国土庁の委託で行った「歴史的ストックと調和したまちづくりの研究」(1992年)や、大阪市の委託で行った「歴史的建造物の保全と活用に関する調査」(1996年)がそうであるし、無形ストックであるが、通産省の委託で行なった「伝統芸能産業振興調査」(1991年)もそうである。伝統芸能の活用に関しては、その後発足した「地域伝統芸能活用センター」に協力して、全国各地にのこっている地域伝統芸能・伝統行事の活性化や、地域商工業の振興への活用についての研究を行ってきている。

3 国際交流、日本語、日本研究などの仕事への展開

 CDIは国際交流、日本語、日本研究などに関する領域の研究調査の受託が多いが、そのきっかけは、総理府広報室の委託で行なった『政府広報・公聴の国際比較研究(1976・1977年)』であった。その調査は各国のコミュニケーション関係の研究者にレポートの執筆を依頼し、平行して各国政府の広報担当機関を訪問してインタビューを行なって、まとめたものであるが、その過程で、日本は国内向けの広報よりも諸外国に対する情報発信が未発達で課題が多いのではないかと痛感し、先述のNIRAにその研究を提案した。そしてNIRAの委託で『日本および諸外国の国際広報・交流の研究』を行った(1978年)。その関連で、自治体の国際交流関係の調査や海外広報出版物(京都市商工会議所の海外向け京都の産業紹介の写真集(1984年写真:二村春臣、1991年写真:中田昭)、滋賀県の海外向け紹介写真集(1987年写真:濱谷浩)などの企画作成をおこなっている。最近、東京国際交流館の文化情報フロアに設置するために作成された『日本社会・文化紹介マルチメディア・データベース』(CDIは日英テキストを担当)も、諸外国に対する情報発信の不足を感じた4半世紀前からのCDIの問題意識につながるものである。
 その国際広報・交流の研究に続いて、海外に対する日本語普及・日本語教育の振興策の研究も、NIRAから受託した(1983年)。その後、国際交流基金に日本語国際センターができ、センターが行う世界の日本語教育機関のデータベース構築と日本語教育の現状分析をサポートするようになった(1991年、1993年、1998年、2003年)、また海外の日本研究者との研究交流を促進するため文部省の大学共同利用機関として国際日本文化研究センターが設立されることになり、その基礎調査として海外の日本研究機関・日本研究者についての調査を、設立準備室ができるまで検討委員会があずけられていた国立民族学博物館からの委託で行った(1985年)。他方、誘致運動をしていた京都市の委託で立地条件の調査や広報活動を行った。その後、それを契機として国際交流基金の日本研究課の行う海外の日本研究者・日本研究機関の調査とデータベースのサポートや、国際日本文化研究センターのデータベースのサポートを行ってきた。
 国際日本文化研究センターについては、それが立地している桂坂を中心とする地域の地誌の本を、考古・歴史・民俗など各分野の第一級の研究者にお願いして作成した(村井康彦編『京都大枝の歴史と文化』1991年)。この事業はその住宅地をユニークな文化的コンセプト(それにもCDIは関与していた)で開発した西武流通グループの(株)西洋環境開発のサポートによるものであった。また、1990年のフランクフルトのブックフェアが「日本」をテーマにして行なわれ、世界中から日本関係の新刊書が3000冊集まり、展示されるという情報をキャッチしたCDIは、日本の書籍出版社協会を通じてブックフェアの実行委員会に働き掛け、展示終了後その集まった各国の日本関係図書を無償で、国際日本文化研究センターに貰い受けられるよう運動し、それを実現させた。
 国立民族学博物館や国際日本文化研究センターの設立構想に関わった経験から、地域における新しい学術センターの構想計画立案にも携わるようになった。奈良県が作った「シルクロード学研究センター」の構想(1989年)、和歌山県が作ろうとしている「熊野学研究センター」の構想(1993年)、京都府が国に設置を要望している「国立総合芸術センター」の構想(1981年)、奈良県が国に設置を要望している「国立文化財総合機構」の構想(1991年)、「大阪府立芸術大学」の構想(1995年)、京都府の「丹後オープンカレッジ」の構想(1996年)などの立案をお手伝いしてきた。最近ではNIRAの助成をうけ、自主研究で『近未来社会のプロトタイプとしての学生街の研究』も行った(1998年)が、一貫しているのは「知の組織化の方策の追求」であるということであり、これもコミュニケーション・デザインの一部である。

4 生活財研究から始まったライフスタイル研究

 CDIの得意とするもうひとつの大きなジャンルが、ライフスタイル研究である。現所長の川添登が助手をつとめていた今和次郎は、民家建築の研究者であるが、大正末期・昭和初期に「考現学」を提唱し、生活研究・風俗研究をさかんに行っていた。川添登だけでなく、CDIの設立者たちは、今和次郎の「考現学」を高く評価し、その遺志をついだ「生活学会」設立の中心になったひとたちとも人脈的に重なっている。その結果、CDIの出発当初からライフスタイル研究の志向があった。それは、CDIの初期においては(株)ワコールのために定期的に開催していた研究会で話し合われ、蓄積されていった。その後、西武流通グループ内に「商品科学研究所(CORE)」が設立され、加藤秀俊が理事に就任すると、CDIとCOREの一連の共同研究がスタートした。それが、『生活財生態学シリーズ』である。これについては、項を改めて紹介するが、今和次郎の考現学を継承し、発展させるものとして評価され、今和次郎賞までいただいた。
 ライフスタイル研究の発展方向には、1985年〜1993年通産省の肝煎りでつくられていた「生活文化フォーラム」(加藤秀俊が代表、CDIがその事務局)、「食空間と生活文化ラウンドテーブル(TALK)」(CDIがその設立前後の調査に広くかかわった)へとつながり、その周辺で多くのライフスタイル研究の成果をあげた。また、この方向で、サントリー不易流行研究所ともご縁ができ、『年中行事の研究』(1990年)、『旅の楽しみについての研究』(1992年)、『家族の動向の国際比較研究』(1999年)、『年中行事の研究II』(2002年)など、一連の共同研究が着々と成果をあげている。

5 独立と移転

 発足当初京都信用金庫の仕事が大部分をしめていたCDIは、このように民間企業、官公庁の研究調査を拡大していったが、その間も、京都信用金庫の手厚い庇護のもとにあったことは事実である。しかし、1985年11月15日榊田喜四夫理事長が急逝されると、それまでのようなサポートが、徐々に受けられなくなっていった。オフィスも1989年3月、京都信用金庫河原町支店7階から出て、京都駅前(烏丸七条下ル)のホーメスト京都ビル8階に移した。そして解散するか、独立の道を歩むかの選択が迫られた。当時専務取締役研究部長であった疋田正博と主任研究員の松野精、河合満朗、半田章二は、川添登・加藤秀俊に、自分たちが受け継いで、独立のシンクタンクとしてやっていきたいと申し入れ、了承された。
 1989年12月14日の株主総会で、川添登所長とともに疋田正博が代表取締役に就任することと、主任研究員の松野精、河合満朗、半田章二、東京分室長の大塚洋明が取締役に就任することが承認され、マネージャー三上正は代表取締役を辞任した。新しく学芸出版社社長の京極迪宏が、栄久庵憲司・小松左京とともに非常勤の取締役に就任、監査役には新たに大村醇吉が就任した。その後、役員の辞任等があり、変化があるが、基本構成は変わらず、第二世代が経営を続けている。
 事務所は下京区京都駅前ホーメストビルから1998年、GK京都が先に入っていた上京区相国寺東門前町の石川ハウス(元「京都アメリカ文化センター」)の2Fへ移り、その14年後の2012年さらに中京区巴町(烏丸夷川西入る)へ移転した。23年ぶりに中京区へ戻ったわけである。


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Last-modified: Fri, 29 Apr 2022 00:10:49 JST (937d)