シィー・ディー・アイによる「わが国社会における文化的状況の21世紀への展望」(総合研究開発機構委託)は、文化状況を数量的に把握しようという試みとして、時代に先駆けたドンキホーテ的な位置づけが与えられるかもしれない。というのは、文化に関する基礎的な統計がほとんど無く、各文化関連機関もそうした統計的資料を整備していないし、仮に持っていても公開しないという状況の中で、個別的なデータは集まっても、「わが国」の文化状況をトータルに数量的にとらえることなど、どだい無理な話であったからである。
もちろん研究に参加したメンバー、すなわち、梅棹忠夫、小松左京、川添登、加藤秀俊ら現在シィー・ディー・アイの株仲間クラスの研究者やおもだったスタッフ、そして総合研究開発機構の研究員たちもみなそのことは承知の上で、とにかくそういう無茶をやってみよう、という楽しい研究だった。1978年当時は、まだ「文化の時代」がやってくると言われはじめた時期であった。それも従来の文化財保護型ではなく、学者からも行政からもいわばいかがわしい目で見られていた大衆文化、生活文化と呼ばれるような裾野まで含めて、「文化が(私事ではなく)国事になった」(梅棹)という認識から、一度全部洗い直し、行政がその種の広い意味での文化をまともに扱わなければ国民一般の欲求に応えられない時代なのだ、という主張が、この研究の中に埋め込まれていた。 この研究で採用した計量化の方法は、「文化」をひとつの機能的体系と見なし内在的構造を想定し、各機能要素のサイズ、要素間の流量を計測する「構造仮説法」であった。最も広い意味での文化を11のカテゴリーに分類し、そのカテゴリーを代表しうるの30項目ごとに、その文化の演出者、仕掛け人、創り手たる「人」、活動の道具立て、舞台装置、伝達媒体となる「モノ」、享受者やその消費の量を示す「行為」という三つの要素にわけ、それぞれをなんらかの指標で計量し分析しようというものであった。
もちろん、この種の方法を批判することはいとも簡単である。まず文化のカテゴリー化の仕方そのものに不服を唱えることができるし、具体的にどんな文化現象をそのカテゴリーの例として選ぶか、というところで不服を唱えることができる。少なくともこの時期には個々の文化現象を計量化した基礎データそのものが非常に乏しかったため、類似の代替的な事例で間に合わせざるをえないことも少なくなかった。次に、文化を人、モノ、行為という尺度で計ること自体に不服を唱えることができる。また、これらの尺度は抽象的であるため、実際に適用する段になると、個々の文化現象について、何が「人」で何が「モノ」で何が「行為」なのかを一義的に決めがたい場面に出くわす。従って、具体的な指標の選択のところで不服を唱えることができる。しかし、そこまでが全部まずまず無難にできたとして、最後に出てきた三つの数値をどう評価するか、というところでまた不服を唱えることができる。
このように、現在の経済学者などが主導する文化経済学などからみればあらっぽいやりかたには違いないが具体的な文化現象を多元的な側面から数量的に捉えようとする試みとしては先駆的なものであった。
ちょうどこの時期に、梅棹忠夫館長(当時)ひきいる国立民族学博物館の経済効果について、産業連関表を使った文化経済学的研究が行われていた。そのような動きをもあわせふまえて、本調査研究の集まりのあとの雑談で、梅棹忠夫が半ば本気、半ば冗談といった調子で、「ここに<計量文化学>の誕生を宣言する」と言い、紙と筆記具を用意させて、黒々と「計量文化学」という言葉を書き付けた。いまでもこの紙は総合研究開発機構の当時のプロパー研究員の誰かが記念に持っているのではないかと思う。その場には梅棹氏のほか、加藤秀俊氏、小松左京氏、川添登氏らもいたはずである。英語では'"Culturometrix" があてられた。本報告書は「学」というには面白すぎる読み物に仕上がったが、日本における「文化計量学」の誕生を告げる一冊となったのである。
この報告書から15年のちに、文化経済学会<日本>が発足し、また、文化施設の経済波及効果といった調査も進められるようになった。しかし、いまだに、文化行政を推進させる理論的根拠や評価指標として統計を活用する方法論が社会的に効力を持つには至っていない。CDIの「計量」手法は、その後、統計処理だけではなく、大量にアンケートしたものを要素化して分析する手法や、徹底的にモノの種類と個数をカウントするという「生活財生態学」の方法論へと展開していく。
『わが国社会における文化的状況の21世紀への展望』NIRAによる目次紹介
原稿原案:松野 精(1999/01/06) ・構成:槙田盤 (2004/03/21)
http://cdij.org/wiki/?eye%2Fkeiryo_b 株式会社 シィー・ディー・アイ