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(論文解題)
この小文群は、読売新聞(関東版)家庭欄コラムに 1994年1〜12月に連載されたもので、それぞれ約2000字の分量で29回ある。 疋田正博(CDI代表取締役)は、 CDIと商品科学研究所による『生活財生態学』調査(1976〜1993年)に 主要メンバーとして参画し、家庭にあるモノを徹底的に調査する ことにより、見えてくる生活のリアリティと、そこにある問題点を指摘してきた。 この成果が、考現学の祖である今和次郎の手法を現代に生かしたものとして 高く評価され、疋田は第5回「今和次郎賞」(1979年)を受けた。
[CDI関連調査研究]
『生活財生態学−家庭における商品構成からみたライフスタイルの研究−』
1976年3月
『生活財生態学II−モノからみたライフスタイル・世代差と時代変化−』
商品科学研究所CORE+CDI
1983年6月1日
『生活財の処分と再流通』
商品科学研究所CORE+CDI
1987年8月1日
『生活財生態学III 大都市・地方都市・農村・漁村 「豊かな生活」へのリストラ』
1993年9月30日
1 あふれるモノ(1/5) ・2 贈り物文化(1/12) ・3 モノの処分(1/19) ・4 死蔵品(1/26) ・5 「飾りたてる」と「簡素」(2/2) ・6 変化する収納(2/9) ・7 「もてなし」のススメ(2/16) ・8 正餐室を持とう(2/23) ・9 食事中のテレビ(3/14)(0312?) ・10 システムキチン再考(3/26) ・11 脱・面・濯と風呂(4/9) ・12 聖なる空間(4/23) ・13 ハレの空間(5/7) ・14 「空の巣」のリストラ(5/21) ・15 定番デザイン(6/4) ・16 不用品の再流通(6/18) ・17 モノの修理(7/2) ・18 モノの供養(7/16) ・19 モノのお化け(8/6) ・20 モノの再利用(8/20) ・21 ディズニー・グッズ(9/3) ・22 ぬいぐるみの流行(9/17) ・23 テレビ(10/18) ・24 こたつとソファ(10/22) ・25 ものもち事情(11/5) ・26 家具のストック(11/19) ・27 クロス類(12/3) ・28 生活財博物館の提唱(12/17) ・29 生活美の様式確立を(12/31)
国立民族学博物館の石毛直道教授が以前、調査した東アフリカのある狩猟採集民の家庭では、わずか17品目で暮らしているという。今日の世界でおそらく最もシンプルな生活だろう。
今回の調査では10年前の前回とほとんど同じ生活財リストを用いたので、その比較もおこなった。10年前の生活財保有数は、1家庭平均1219品目だった。それが今回は1643品目になった。何と私たちはモノをたくさん持って生活していることだろう。
最初に調査をした昭和50年に、家庭の中にある生活財のおびただしさに私たちは驚き、これ以上商品が家庭に入ることはできないだろうと考えた。その時点で、電気洗濯機、電気冷蔵庫、テレビなどの家庭電化製品は既に100%に近い普及を遂げていた。住宅の狭さがにわかに解消されそうになかったので、そう思うのも無理もなかった。
しかし、実際には狭い住宅にモノが増え続け、収納できずにあふれでているのが現状である。例えばこの10年間を見ても、普及率が10%以下であったビデオデッキが100%に近い普及をしているし、6%以下だった電気カーペットは60%を超えている。
総理府の国民生活世論調査では、生活の重点をモノの豊かさよりも心の豊かさに置きたいという人のほうが2倍いる。だが、実際には私たちはモノの豊かさの追求に飽きておらず、家の中の生活財はまだまだ増え続けるような気がする。
現代の日本の家庭には、実に飾り小物が多い。その原因のひとつに「贈り物文化」がある。
私たちは昭和50年の調査で、それぞれの生活財が、その家庭の恩恵でその家に導入されたものか、他人に送られたものか調べてみた。どの家庭でも飾られている人形や飾り皿、額といった飾り小物は、4割以上が他人から贈られたものであることがわかった。
私たち日本人は実に贈り物をするのが好きである。なにか世話になったことへの感謝のしるしとして、お祝いや悔やみの返礼として、あるいは旅の土産として、実に気安く、他人に物を贈る。口下手な分、モノに助けてもらって表現しようとするのだろう。言葉よりも実質的な価値を与えたいという気前の良さもあるのだろう。
しかし、この週間、国際的にはあまり高く評価されない。もう少し言葉で表現する方向へ改善したほうがよい。どうしても他人に贈り物をしたいときは、せめてその相手の家庭景観に干渉するような飾り小物を贈ることは避けるべきだろう。
贈られた側には、せっかくもらったモノをしまったり、捨てるのは、贈ってくれた人にすまないと考え、すでにあるほかの飾り小物との調和や統一を考えないで、とりあえずそれを飾る傾向がある。
その結果、家庭景観は、他人たちの趣味の集積となり、単なるモノの氾濫としてあらわれる。
やっている本人の目には至極自然なことなのだが、他人にはあまり見よい光景ではない。たとえ贈られたモノでも、心を鬼にして自分の美意識で室内を制御したほうがよい。
今回の調査では、もらったカレンダーを飾らず、自分が気に入ったものを買って飾る傾向が、都会の若い家庭で少し出てきた。よいことだと思う。
私がこどもの頃には、家中の畳を道路に出して干す大掃除が、自治体の指導で地域一斉におこなわれていた。いらないものはその機会に棚卸し大処分された。
この一斉大掃除がなくなったのが昭和46年頃。最初に購入した家庭電化製品が10年を迎えて買い換えの時期になり、それらを「粗大ゴミ」として日常的に収集を始めたのと引き替えに廃止されたのである。
その結果、最低年1回あった家の中の生活財が総点検を受ける機会がなくなった。部屋の隅や棚の上、押入の奥に置いておくべきかどうか見直されなかったり、存在を忘れられた死蔵品が大量にたまる現象も生まれた。モノを総点検する機会は、引っ越しの時しかなくなってしまった。
昭和60年から61年にかけて「生活財の処分と細流通」という調査をおこなったことがある。モニター家庭に2年間、処分したモノをそのつど記録してもらったのである。着なくなった背広など、処分しようと思いつつ、結局処分できなかったモノが残っているという家庭は90%あった。
モノへの「思い入れ」や、納得のいく再流通のシステムがないことも、処分を躊躇させる原因となっている。だが、引っ越しをした家庭を同時に調査してみたら、それを気にかなり思い切って処分していた。見直しの機会がないと、なかなか思い切って処分できないのである。
それぞれの家庭で独自に大掃除の日を制定して、年に一度家中のモノを総点検してはどうであろうか。言うはやさしくおこなうは難しで、よいアイディアだと思いながら、自分の家庭でさえそれが実施できないでモノをあふれさせている。順調にいけば息子がもうすぐ巣立ってくれるので、それを機会にと考えている。結局そういうことでもなければ、家中のモノの総点検などできないのかもしれない。
「死蔵品」の定義は難しい。持っているけれど全然使わないモノをそう呼ぶとしても、中には消化器や避難ばしごのように、使わないで有事に備えておくことに意味があるモノや、表彰状や記念バッジなど持っているだけで意味があるモノもある。
どういうモノを除いても、いずれ使うつもりだったり、あるいは処分するつもりで置いてあるモノ、思い入れがあって処分の踏ん切りがつかないモノもある、判断する人や、そのときの気分によっても変わる。グレーゾーンが大きいのである。したがって「死蔵品はどのくらいあるか」という質問には実は答えにくい。
保有率は1割以上だが、その中で「持っているけれど全然使わない」人が5割以上というモノを選び出すと、100品目ほどある。それをながめていると、有事の備えや記念品以外に、いくつかグループ分けができる。
火鉢や和裁用品など、生活様式の変化で使われなくなった古い生活財が第1のグループ。マタニティー洋品、ベビー用品など特定の時期にしかいらない生活財が第2のグループである。
そして第3グループは、一見便利そうで買ったけれども使われないモノである。
これがなかなか興味深い・筆頭は食事の用意ができたことを告げるディナーベルで、「全然使わない率」は8割近い。次いでアイスクリーム製造器、リンゴの芯抜き、電気ゆで卵器で、「使わない率」が6割前後である。
こうしてみると、みんな調理関係の生活財である。しかし購入したのは主婦とは限らない。「アイディア商品マニア」は、結構男性に多い。何を隠そう、わたしもそういう「おっちょこちょい」の一人である。
19年間、生活財生態学の調査にかかわり、色々な家庭の様子を観察してきた。住宅は比較的広いのに、あふれるモノに圧倒されている家庭があるかと思うと、家は狭く生活財も人並みに持っていながら、上手に収納しすっきりと暮らしている家庭もある。
こうした違いが生じる背景には、「飾りたて好き」か「簡素好み」かいう美意識の違いがあるようだ。国立民族学博物館の栗田靖之教授は、「日本人の中には、このふたつの美意識が分かちがたく併存している」という説である。
日本人は、大変すっきりした簡素なものが好きだ。しかし、簡素の美の対極に飾りたての美の形式もまた存在していた。歌舞伎の世界、日光東照宮、お寺の内陣や仏壇の中、そして今日の霊柩車の装飾へと続く流れがその例だ。「日本人は心の中に、飾りたての美に対する抜きがたい好みを脈々と持ち続けていたことを忘れてはならない」と栗田教授は言う。
これに対し、井上章一国際日本文化研究センター助教授は、「飾りたての美意識は上層のエリートの趣向が歴史的に下層へ伝わっていった」とする説を唱える。封建時代のエリートたちは自己の荘厳化に対して、てらいを感じなかった。王侯貴族たちは素直に自らを飾りたてた。それが上層から民衆へ降下していった、という説である。
わたしは、社会あるいはひとつの家計が経済的、物質的に上昇期にあるときに、「飾りたての美」が現れ、安定あるいは停滞期にはいると「簡素の美」が優勢になると考えている。その立場から言うと、日本人のほとんどが高成長の時期から今日まで、実に素直に成り金的精神に浸り、「飾りたて美意識」を発揮してきたと言える。しかし今日のような経済状態が続けば、もしかすると「簡素の美」の方向に向かうのかもしれない。
昨年、発表した生活財生態学調査では、4203品目のモノが家庭の生活財としてリストアップされた。うち520品目は服飾関係だった。和装関係の保有率は大都市では低いが、地方では結構高い。一般の人々がこんなにたくさんの種類や量の衣類を持って暮らすのは、人類始まって以来のことではあるまいか。
そこで家庭では、大量の衣類の収納が問題となる。家具の博物館(東京都中央区)の学芸部長だった小泉和子さんによると、タンスという分類と出し入れが便利な収納具が生まれたのは江戸時代初期のこと。農業生産力の急速な向上で豊かになった民衆が、衣類をストックできるようになったからという。
それ以前は祭りの時に着る「ハレ着」と、日常の着たきりスズメの「ケ着」しかなかったから、箱式の収納具が少しあれば十分だった。江戸期以降、ふだんから着る衣類はどんどん増え、今や和ダンス、洋服ダンスでは足りなくなった。
若者を中心に最近増えたのが、通信販売の広告などで見かけるクローゼット・ハンガーの利用。ブティックのように、部屋の中に金属パイプ製のハンガーを置き、むき出しのままかけておくのである。10年前は4%の家庭でしか見られなかったが、昨年は12%にアップ。室内に物干しざおを斜めにわたし、一時乾燥や保管に利用する家も4%から40%に増えた。
そうした「露出型の保管」あるいは「飾りたての美学」を好ましく思わない「簡素の美学」派は、「収納壁」を志向し始めた。壁全体を物入れにして、タンスなどという中途半端な収納具もみな壁の中に隠すのである。一部屋全部を洋服かけに利用する「ウォークインクローゼット」も合わせ、「隠す」方式も今後増えそうだ。
モノが増えるにつれて、収納方式も変化していく。
生活財の調査に協力してくださった家の中の写真を見て、また振り返って我が家の中を見渡して、いつも思うのは「日本の家庭景観は何とモノがはんらんし、無秩序なのだろう」ということである。
もちろん、中には建築・住宅雑誌に紹介される家と同じような美的統一感のある家もある。しかし、それはむしろ例外ともいうべき数で、たいていはその反対である。いったいどうすれば、日本の家庭景観に美的統一感が回復するのか。
経済的な発展が緩やかになり、水準もそれほど落ちずに時間がたてば、家庭景観もシンプルに洗練されていくだろう。これは長い目で見た場合の私の予想である。しかし、短期的にはどうすればいいのか。
手っ取り早い処方せんは、「招客のススメ」だ。我が家を引き合いに出すと、モノが片付き、家の中が多少見られる景色になるのは、家に上がり込む客が来る時である。そういう予定が入ると、家中をていねいに掃除して、できるだけモノを隠し、あるいは並べ替え、「しつらい」をする。
どこの家でも似たようなことをしているのではないだろうか。普段は眠っている客観的な美意識が、客が来るというと目覚める。それなら、時々積極的に客を招き「もてなし」をすればよい、というわけだ。
効果は景観だけではない。家庭での行動、「ふるまい」にも美意識が回復し、多少下品でなくなり、言葉遣いもていねいになる。
編集工学研究所の松岡正剛所長は、今後の日本で「もてなし」「ふるまい」「しつらい」は大事なキーワードになるだろう、と言っている。実は氏の提案で、そのテーマを掲げて、京都で平安建都1200年記念の連続シンポジウムをやっている。生活美学の回復という点でまさしく氏の言が当てはまる、と考えている。
生活財研究シリーズの第2弾として、昭和53年に私たちは生活財の保有を国際比較するためにヨーロッパに出かけた。そのころ日本航空の広報室次長だった作家の深田祐介氏が、日本の「公団2DK」スタイルをさかんに批判していて、ヨーロッパにダイニングキチンなんて存在しない、と書いておられた。
私たちはそんなものかと思って行ったのだが、意外にも台所にテーブルがある家が結構あった。ふだんはここで食事をするというので、「なんだあるじゃないか」と思ったものだ。
しかし、そういう家には必ず客を招いたり、年中行事などの食事の時のための正餐(せいさん)室があることも知った。深田氏が言いたかったのは、日本もこの豊かさを求めるべきだということがわかった。
松下電工の稲上義之氏によると、アメリカで台所にふだん用の簡易食卓(ヌック)を入れて正餐室の食卓(ダイニングテーブル)と使い分け、リビングルーム(日本でいう応接室)と茶の間に当たるファミリールームを使い分けるようになったのは、戦後1960年代のことという。つまりそんなに古いことではなく、アメリカの最も豊かな時代に、ふだんと招客時の空間を分けたのである。
同じころ日本は、住宅難の解決に取り組み、空間を節約するために台所と食事室をいっしょにした「公団DKスタイル」を生み出した。これが明るくて合理的だとして大歓迎され、あこがれの的にさえなった。
それから30年たち、現在の日本は「ゆとりと豊かさ」を追求する時代になっている。だから、ヌックにすぎないものをダイニングなどと呼ぶのはもうやめにして、新たに正餐室を持ち、食事空間を機能分化させるべきであろう。正餐室は洋式ではなく、和式でも構わない。早い話、ちゃんとした「座敷」が一つあればそれで良いのである。
昨年の調査で、食卓から見える位置にテレビがある家庭は80%だった。だから食事中にテレビを見る習慣がある、とは言えない。だが、食空間関連産業の交流団体「食空間と生活文化ラウンドテーブル」の調査では、食事中にテレビを見ている家庭は54%、時々見る家庭は31%あった。
子供のいない中高年夫婦の家庭では、「時々」も合わせると100%が見る習慣があった。テレビは寂しさや退屈を紛らしてくれる、もう一人の家族のようになっている。一人暮らしのお年寄りも同様だろう。こういう場合のテレビは大変役に立っており、排斥する必要はまったくない。
一方、小さい子供のいる家庭では食事中にテレビを見る家庭は50%と少なくなる。その20%の主婦は「食事中はテレビを消したい」と望んでいる。こうした家庭でテレビを消せないのは、見たい番組と食事時間とが重なるからだ。あるいは、消しておくと見たい番組を見逃す恐れもある。
テレビは食事しながらのだんらんを映している。それなのに、食事を共にする家庭のだんらんをそのテレビに邪魔されている。ビデオがほぼ全家庭に普及している今日、録画しておけば済む話だ。戦後、様々な家電製品が私たちの生活を大きく変えたが、テレビほど強い影響力を発揮した製品はなかった。その影響力に抗して、生活を作っていかなければ、ゆとりも豊かさも得られない。
台所は本来、美的価値を優先しない。究極的には業務用厨房(ちゅうぼう)のように、清潔で材料や調理器具などが取り出しやすいように合理的に配置され、働きやすければいい。
かつて孤立していた台所は、ダイニングキチンのように居住空間と重なる方向へ変わってきた。他人の目を意識し始めた結果、やかんや鍋、炊飯器などに見栄えのする派手な色や花柄が流行した。生活財の調査を始めた昭和50年ごろはその最盛期で、その後多少下火になってきている。
台所関連の新製品の開発は目覚ましく、次々にモノが導入される。おびただしい数のモノが収納されないまま、自己主張しているのが一般的な台所の光景だ。
一方、材料から食器まですべて隠し、逆に絵の一つでも飾って応接室のようにしてしまう潔癖主義の風潮も台頭してきた。ドイツ、北欧辺りに源を発し、日本ではシステムキチンのメーカーの宣伝と女性雑誌によって増幅された。
合理的収納や快適な台所を実現した点で、システムキチンのメーカーの功績は小さくない。しかし、結果として大変高価になり、見られることを意識し過ぎた方向へ進んで使い勝手を犠牲にするという、おかしなことになった。
居住空間側から見て見苦しくなく、調理空間として働きやすい台所スタイルの確立に、住宅や機器のメーカーが協力して頭を絞ってもらいたいものである。
家の中で一番モノがごたごたして片付かないのはどこだろうか。それは、私たちが「脱・面・濯」と呼んでいる脱衣場、洗面所、洗濯場、そして風呂である。ここが片付いている家は、家中スッキリしている。
昨年の生活財調査の対象家庭で、脱・面・濯空間に露出している小物を数えてみた。一番多いのはタオル。次いで液体洗剤の容器、洗剤の箱、脱衣かご、たらい、バケツ、底に吸盤のついたブーツ、ヘルスメーターなどが並ぶ。
以前の粉末洗剤の箱は、ばかでかくて、店頭で目立つような派手な色とデザインだった。洗剤の粒子を細かくする技術の革新があって、箱は小さくなった。しかし液体洗剤などの種類の多さはすごい。保有率の高い順に挙げても、漂白剤、毛糸荒い用洗剤、仕上げ剤、洗濯のり、これに各種の掃除用の洗剤が加わる。
浴室もモノがあふれている。シャンプー、リンスを家族一人一人好みのものを使うと、たちまち数が増える。そして、体を洗うナイロンタオル、ブラシ、ヘチマ、軽石がある。温泉気分を味わえる浴槽添加剤や、浴室掃除用の道具と洗剤が加わる場合がある。
ヨーロッパの家庭を調査した時も、脱・面・濯空間が一番ゴタゴタしていたのを思いだす。これらの空間では、関連するモノの多さに収納スペースが追い付いていない。住宅メーカーや生活者に十分意識してもらいたいポイントだ。
神棚や仏壇をモノ扱いすると不快に思われる方もあるだろうが、私たちにとっては「生活財」の一種だ。昨年の生活財の調査を基に、保有率を調べてみると、両方ある家がおよそ1/3、両方ない家が1/3。残る1/3のうち、仏壇だけの家が2/3、神棚だけの家は1/3という結果であった。
地域と年齢によってかなり差がある。両方ないという家は東京圏で65%、大阪圏で42%もあるが、逆に両方あるという家が山梨県の農村では54%、福井県の漁村では81%もある。地方都市はその中間だ。
仏壇は世帯主の年齢が高い家ほど保有率が高い。20代では24%であるが、60代では81%もある。「作り付け」の仏壇は漁村で多くみられた。
仏壇ほどきれいに相関するわけではないが、神棚も世帯主の年齢が高い家ほど保有率が高い。農漁村では長押(なげし)の上に伝統的な神棚が作られている。仏壇の上に神棚が飾られている例もあった。大都市や地方都市では、たんすや冷蔵庫の上に便宜的に置かれていたり、部屋の角を利用して斜めに飾られる傾向がある。
家庭の中の聖なる空間は、都市においてはかなりおろそかになってきていることがわかる。今後、この傾向はもっと進行するだろうが、年齢の点はどうだろう。今の若者や中年が年を取ると、尊重するようになるのであろうか。
近代以降、私たち日本人は毎日ハレ着のようなものを着たり、ハレの日のものを食べたりするようになった。ハレ(非日常)とケ(日常)の区別がなくなったと言われている。
しかし、住生活に関してはハレの方がなくなった。伝統的な住居で、ハレの空間と言えば床の間つきの座敷である。戦後の住宅難解消を目標にした水準から、いまだに抜け出せていない都市の集合住宅では、床の間つきの座敷は少ない。
また、生活財の調査をしてみて、床の間つきの座敷がある家でも、その床の間に目覚まし時計やティッシュペーパーの箱を置いたり、たんすや本棚、テレビを押し込んだりしていることがわかった。いわば床の間の半物置き化が進行しているのである。特に若い人の家庭でその傾向が顕著だ。
しかし、床の間つきの座敷を使いこなす生活美学はまだ滅んでいない。現在、私は「食空間と生活文化ラウンドテーブル」という業際団体の研究会のために、たくさんの家庭の、様々の場合の、食空間の写真を見比べる作業をしている。お正月や誕生祝いなど、家庭での年中行事や通過儀礼をしている場合、床の間つきの座敷が一つあると、モノもヒトも写真の中で実にうまく収まっていることを発見し、感心している。
都市の公営集合住宅でも、ハレの日にだけ使う床の間つきの座敷を持つ余裕があるべきであると思うのだが、どうだろう。
子供が巣立って老夫婦が残された状態を、「エンプティーネスト(空の巣)」という。核家族化が進み、子供の数も減った。寿命は長くなったので、「空の巣」状態が早くやってきて、長く続くようになる。
17年前から生活財の調査にご協力いただいている家庭の写真を観察すると、子供が巣立った後、ポスターやぬいぐるみなど子供のモノがまだ残っている部屋を、夫婦がそのまま使っている例に気づく。「美意識の弛緩(しかん)」と言っては失礼だが、片付けや飾り付けが中途半端で、何となく以前のようにキマっていない。
実は私もこの春、一人息子が出ていったので、その事情がよく分かる。子供が残していったモノを跡形もなく大整理して、夫婦のモノで再構成するには、周到な計画とものすごい気力と腕力がいる。たいていの場合、徹底してそれができないのである。
農村などでは、子供が実家をトランクルームと心得て、不用品を送り付けてくる場合も多いという。家が広ければ、空き部屋に入れておけるが、都市では家が狭いから、子供が残していったものさえ邪魔になる。処分すべきなのだが、本人もいないし親だけでは決断がなかなかつかない。
しかし、このハードルを超えてリストラ(再構築)をしなければ、老夫婦の、スッキリとした「空の巣」生活を、都市では実現できないのである。
生活財の調査を始めた20年前、家電製品や調理用品にはやたら原色や花柄がついていて、家庭景観は騒然としていた。調査結果を基に「そんなモノばかり集まると、家中がおもちゃ箱のようになってしまう」とあちこちで訴えた。
新しいデザインを次々に出して、前のデザインを計画的に陳腐化させることや、無意味な差異化は反省された。今日、原色や花柄のデザインは非常に少なくなり、シンプルになったのはたいへん結構なことだ。
次のステップとして、メーカーに「これぞデザインの決定版!」という自信作を出してほしい。もうこれ以上、技術的な改良がなさそうな成熟商品は、機能と美が一体となったデザインの定番商品を開発して、長く売り続けてほしい。食器のように一つ一つ補充が必要なモノや、ベーシックな衣料もそうだ。
先日、私の事務所の米国製特大コーヒーメーカーが故障し、現地に注文した。20年前の製品にもかかわらず、同じものが送られてきた。米国にはそういう定番商品が多い。中には、ニューヨーク近代美術館が収蔵、展示している優れたデザインのモノもある。
現在、日本の企業は不況で、商品のニューモデルを出すサイクルが長くなり、デザイン部門は暇だと聞く。こういう時期にこそ、定番デザインを追究するのが、ワンランク上の生活文化の実現に対する企業の貢献ではないだろうか。
生活財の調査では、一家庭に平均1600点以上のモノがあった。死蔵品も少なくない。そこでこの連載の初めのころ、「年一回はモノの総点検と処分を」と提案した。だが、日本は生活レベルの格差が小さく、モノの再流通は難しい。
不用品を処分するのに、初めから新聞の「あげます」欄などで広く呼びかけると、希望者が何人も現われる。多くの人に断わったり、謝ったりしなければならない。では、どういうシステムがあるといいのか。
理想的には、第1段階としてコンビニエンスストアなど日常生活圏にある施設で張り紙などで呼びかけ、地域の中で直接、受け渡しをする。処分品がたくさんあるなら、家の前でガレージセールを開くのもよい。
なおも引き取り手がなければ、第2段階として地域新聞などで呼び掛ける。それでも処分できない場合、第3段階として都市圏全体に希望者を募る。
こうした再流通システムを社会的に整備することが必要だ。それができていないから、まだ使える家具や家電製品を「大型ゴミ」として出してしまい、処理場があふれることになる。
最近は処理場の負担を減らそうとして、清掃局などがゴミとして出された家具や家電製品を修理したり、磨き上げて販売している。「まだ使えるモノを捨てないで」というわけだ。しかし、そもそも有効な再流通システムを整備せずに、精神論を押し付けるのは見当違いのような気がする。
前回、不用品はシステムが整わないと再流通が難しいと書いた。工業製品は生産と流通は大量に能率的に行われるので、極めて安く手に入る。
しかし一定時間使用して故障した場合は、メーカー方向への流通も、故障箇所の探求と修理も一品ごとになり、極めて能率が悪くなる。そのためある程度コストと時間がかかるのは当然である。それは認めなければならない。
しかし現在の修理の値段は適正であろうか。修理をあきらめさせるために、修理の値段を下げる努力が怠られているようにさえ私には思える。
家電製品が壊れて修理をしようと、電気屋に持ち込むと、もう部品がないかもしれませんよなどと言われる場合がある。モノによって期間は異なるが、7年とか10年のかなり長い期間、部品を確保しておくことがメーカーに義務付けられており、通産省によって監督されている。しかも各メーカーは念のためそれ以上の期間、部品を置いている。部品がないということはほとんどないのである。
実は部品があっても、修理に時間とお金がかかるうえ、その店の手数料があまり入らないので、むしろ新品の購入を勧めたいのである。
新品を買うくらいかかりますよと言われれば、修理をする気で来た客も、修理をあきらめて、新品を買って帰ることになる。省資源という観点からは現在の修理のシステムにも問題がある。
先日、東京都内の住宅地のゴミを出す場所に「人形供養いたします」という張り紙を見かけた。京都には宝鏡寺という人形供養で有名な寺があるので、驚きはしなかったが、ゴミ集めの場所にあったのが気になり、電話して聞いてみた。
人形をゴミとして捨てるのに忍びない人に代わって、不用になった人形を預かり、お寺でお経を上げてもらって弔うのだという。なかなか人情の機微に通じた商売、あっぱれと思った。
人形は不思議なモノで、じっと見つめていると魂があるような気にさせられる。不用になってもゴミとして捨てるには心理的な抵抗がある。
人形の場合ほど強烈ではないが、モノには何にでも魂が宿っているような、かすかな宗教的気分が私たちにはある。それを「アニミズム」といい、モノの処分をちゅうちょさせる。
こうした心理的抵抗を乗り越えるため、昔の人たちは役目を終えたモノに感謝を込めて供養を行った。今でも12月と2月の8日に東京・淡島神社、京都・法輪寺などで針供養が、11月23日に京都・東福寺などで筆供養が行われる。
しかし近代の工業製品の供養の話はあまり聞かない。供養をすべきだなどと言うつもりはないが、家電製品などを処分する際の、ちょっとモノに対してすまないような気分は、まさしくアニミズムである。そういう気分をあまりなくしてしまいたくないものである。
モノに魂が宿っているというイメージ、そしてモノを処分するときの心の痛みは、昔の人たちには、相当強烈にあったらしい。数年前、京都国立博物館の絵巻を集めた特別展覧会で、さまざまの道具のお化けが、行列をしている室町時代の不思議な絵に出会って、そう思った。
その絵の題は「百鬼夜行図」。打ち捨てられた古い道具が化けておぞましい妖怪になり、夜徘徊(はいかい)して、人間にいろいろあだをするという「付喪神(つくもがみ)」を表わしたものだ、とされている。
これは京都大徳寺真珠庵の所蔵の重要文化財であるが、田中貴子さん(梅花女子大学助教授)の近著『百鬼夜行の見える都市』によると、このほかにも同じ時代に似たような絵はたくさん描かれたらしい。室町時代に京都で商工業が盛んになってモノが多く出回り、捨てられるモノも多くなった。一方で、祭礼行列も盛んとなった。そういうことが背景にあって、こうしたモノのお化けの行列絵が多く描かれたのである。
1960年代の高度経済成長期に、私たちは家庭電化革命を行い、たらいと洗濯板、やぐらごたつ、ほうきとちりとりなど、たくさんの伝統的な生活財を廃棄した。しかし当時、便利なことは良いことだと強く信じていたので、それを処分するに当たって、多少感傷的になることはあっても、モノが化けて出るというイメージは持てなかった。
明治生まれの私の祖母は、何でも「もったいない」と言って残しておく人で、遺品に、きちんと畳んだデパートの包装紙やひも、紙袋などがたくさんあった。近ごろは使い捨て生活を反省する気分が高まり、小売店でも簡易包装や買物袋を有料化して、繰り返し使うよう勧めている。ところで、普通の家庭ではどの程度、「再利用予定のモノ」を残しているのだろうか。
私たちの調査では、「再利用予定の」スーパーなどの袋の保有率は98%。以下、紙袋・手提げ紙袋(87%)、空き箱・オリ(79%)、紙箱・木箱(73%)、包装紙(71%)、空き瓶(70%)、空き缶(69%)、ひも・リボンは68%と続く。
靴磨きなどに使う古歯ブラシは57%、計算、メモ用紙として利用する裏白広告・ビラは52%だった。
スーパーなどの袋、紙袋・手提げ袋、包装紙、ひも・リボンなどはあまり世代差がなかった。しかし、空き箱・オリ、紙箱・木箱、空き瓶、空き缶などかさばるモノは、60歳代以上では残している割合がかなり高いのに、20歳代ではかなり低かった。若い人にはモノを無意識に「もったいない」と思う気持ちよりも、置いておくスペースのコストに対する意識の方が大きいのかもしれない。
古歯ブラシ、裏白広告・ビラも世代差が大きかった。同時に地域差も見られ、地方都市が大都市や農漁村よりも高かった。
10年ぶりにたくさんの家の、家中くまなく撮った写真を並べて見て、驚いたのはディズニー・グッズ、すなわち東京ディズニーランド(TDL)で記念品・お土産として売っているような、ディズニー・キャラクターを付けた飾り物の多さだった。独特のキャラクターと色遣いで、一目でそれとすぐ分かる。
子供部屋にあるディズニー・グッズをカウントすると、43%の部屋に、一部屋当たり平均 2.9個あった。学齢期以下では平均 4.4個もあった。TDLがオープンしたのは昭和58年。入場者は毎年1500万人以上だから、もう日本の人口以上の人が行ったことになる。各家庭にディズニー・グッズがあってもおかしくない。
TDLの入場料はかなり高いうえ、地方からだと旅費もかかる。しょっちゅう行ける所ではない。だからこそ子供にとっては、一度は行ってみたい聖地のような存在であり、行けばその証拠を持って帰って飾りたい、親も買い与えたい、という心理はよくわかる。
私自身を含めて、戦後育ちの親はたいていディズニー映画と、テレビのディズニー・ワールド紹介番組で、それへのあこがれをしっかりと刷り込まれて大きくなった。しかし、子供部屋のディズニー・グッズは、そうした親や子供の心理と購買能力を計算しつくしたマーケティングの成果そのものを見るような気がして、かえって興ざめである。
日本の家の中のぬいぐるみの多さに外国人は驚く。ぬいぐるみの多さと、それが子供部屋に止まらず、居間や食事室に出てきていることの両方に、である。
市販のぬいぐるみは75%の家で、平均 11.8個保有され、手作りのぬいぐるみは30%の家で、平均 3.6個保有されている。子供が抱いて遊んだぬいぐるみは、大人も飾ってめでるものになってきた。
その典型が「テディベア」と呼ばれるクマのぬいぐるみである。今世紀初めの米国大統領セオドア・ルーズベルトが狩猟中、子グマを助けた逸話から、テディという大統領のニックネームがついたとされる。
近年、年代物のテディベアが高値で取引されたり、展覧会が開かれたり、系統分類した立派な図鑑まで出版されたりした。本来、子供文化を馬鹿にするはずのスノッブ(上流気取りの人たち)の間で、ちょっとしたブームになっている。
それとは別に、ゲームセンターで小さな安物のぬいぐるみを釣り上げるゲームもはやっている。ツッパリのおニイサンさえ、戦利品のぬいぐるみを並べて愛玩している。
ぬいぐるみの流行は、平和が長く続いた時代の、「マッチョ(男らしさを強調する)文化」が弱くなった時代の、行き着くところまで行ってしまってエロティシズムが魅力をなくした時代の、そしてその結果みんながぶりっ子をしたがる時代の、象徴だろう。今、日本はその全盛時代である。
かつてテレビが普及し始めたころ、テレビは家庭の生活財の中でも特別の意味を持っていた。ニュースや娯楽をもたらしてくれる、社会に開かれた窓として、実に重要な位置を占めるモノだったのである。
日本では民放が同時に発達したため、コマーシャルによって様々なモノたちを家庭に呼び込む、「トロイの木馬」のような役割を果たした。今日でもテレビはベビーシッターであり、寂しい人たちの親しい友だちである。
しかし、番組自体はかつてほど熱心に見られていないのではなかろうか。私の仕事仲間の一人はテレビをつまらないといい、それを持たないことを半ば誇りにしている。こういう人は日本では珍しいが、今後増えてきてもおかしくない。
私は地上波(従来のチャンネル)はつまらないと思うものの、衛星放送やビデオ、レーザーディスクを積極的に楽しんでいる。
最近では都市型ケーブルテレビの普及で、たくさんのチャンネルが楽しめるようになった。そのケーブルを双方向通信にして、見たいビデオを好きな時間に見られるビデオ・オン・デマンドやテレビショッピングができる実験も京阪奈(けいはんな)丘陵の文化学術研究都市で始まった。
今度はユーザーが主導権を握るとも言われているが、また「トロイの木馬」になるのではないだろうか。
18年前、台所と食堂と居間が一緒になったLDKがはやり始めたころ、私たちはこのタイプの部屋がどう使われるのか研究したことがある。16軒のお宅で、LDKにあるテレビの上にビデオカメラを据え、72時間連続で家族の動きを撮影させてもらった。
LDKは当時、狭いDKと違ってソファが置かれて、大変「洋風」なイメージだった。しかし、9軒のお宅では、ソファの前に洋風イメージとは正反対の「電気やぐらこたつ」が床に据えられていた。ソファは実は「背もたれ」として、あるいは新聞や衣類を置く「棚」として機能していることがわかり、こたつの健闘ぶりも明らかになった。
こたつが洋風の生活にこんなに残るのであれば、こたつもこたつ布団(当時は和風の柄が多かった)も、もっと洋風のものになっていいのではないか、と提唱した。その結果、家具調こたつや、西洋のデザイナーがデザインした(本当かどうか怪しいが)と称するこたつ布団が数多く現れた。畳より木の床の方が好まれる若者のアパートでも、こたつが使われている。
こたつの利用がこんなに根強いわけは、床暖房や部屋全体の暖房より安いという経済的解釈もなされている。それよりも、下半身を暖めてあぐらをかいたり、ごろりと横になれることが捨てがたいのではないかと思われる。日本人の生活がいくら洋風化しても、きっとこたつはなくならない。
東京、ロンドン、パリ、デュッセルドルフの平均的な家庭を5軒ずつ選び、生活財保有と家庭景観について調べたことがある。1978年のことである。1281品目の生活財リストを作って調査した。
東京の平均所有品目数は 794(日本特有の84品目を含む)。一方、ロンドン 640、パリ 636、デュッセルドルフ 627だった。
少数例だからあまり確かなことは言えないが、日本の家庭はヨーロッパの家庭より 150品目以上「ものもち」らしいとわかり、たいへん驚いた。
なるほどヨーロッパでは家の中にモノがあふれている感じを受けなかった。しかし、ヨーロッパでも「ものもち」にあこがれ、モノを飾りたて、家の中がごたごたごたごたモノであふれていた時代があった。
イギリスでいえばヴィクトリア朝時代。産業革命の結果、モノに取り囲まれて暮らすことが幸せと感じるようになり、家の中はモノであふれた。それが反省されて、再びすっきりした景観に戻るのに何十年もの年月を要したという。
日本も高度経済成長期にモノの飾りたてを経験した。今はモノを収納して隠そうとする、あるいは量より質を追求する時代に入っている感じを私は持っている。そしてここ数年、アジアの経済成長国では、テレビの普及に加速されて、かつての日本と同じ現象が起きているらしい。
18年前、ヨーロッパの家庭で生活財と家庭景観を調査してみて、古い家具が家の目立つ所に置かれて、たいへん大切にされていることが印象に残った。
しかし、これを親子代々受け継いできたと考えるのは早計だ。調査した15軒の家で、「先代から相続した家具がありますか」と尋ねると、「ある」と答えたのは意外にもたった一軒で、しかもいす一つだけ。あとは、わざわざ年代物の家具を買ったりもらったりしたものだった。
日本の新婚家庭は、新しいデザインの家具をいっぺんにそろえて出発したがる。そのお陰で家具業界は大変潤ってはいるのだが、見かけだけ立派でよく見るとチャチな、相続どころか一代の使用にも耐えず、引っ越すたびに捨てても惜しくないような家具が多い。
ヨーロッパでは、夫婦が相談して気に入ったものを探し、調和を考えながら少しずつ買いそろえていくらしい。その時「新しい」ことが必ずしも価値を置かず、むしろ「古い」ことが好まれるのである。そのため古いいすを解体し、各部材に別の部材を継ぎ足して元のいすの複製をたくさん作り、「修理した年代物」と称することさえ行われていると聞く。
日本の消費者や生産者も、家具を「使い捨て」のモノと考えず、次の世代に受け継げる社会的なストックとして意識しないと、豊かな生活にはなかなか到達できないのではないか。
日本の家庭は「モノ持ち」だが、ヨーロッパの家庭に数の上で圧倒的に負けているモノがある。それはテーブルクロス、ナプキン、シーツなどのクロス類だ。英語ではハウスホールド・リネン、フランス語ではランジュ・ド・メゾン、ドイツ語ではヴェッシェと呼ばれる。
日本の家庭ではテーブルクロスの上にビニールシートを被せて、ずっと掛けたままにすることが多く、平均3枚しか持っていない。ヨーロッパでは、正餐(せいさん)の都度掛け替えるので、平均10枚はある。
昔は一生買い足す必要のない数のランジュ・ド・メゾンを、嫁入り道具として持って行く習慣があったらしく、今でも上流家庭ではそれが守られているという(篠田雄次郎『日本人とドイツ人』)。それらを入れるのが、上開きのふたのついた大きな木の箱だ。
私たちが訪問した15軒のうち、2軒にその箱があった。優雅なスタイルの他の家具に目を奪われて、うっかり見過ごしそうな、何気ない古びた木の箱だが、きっとヨーロッパの人たち、特に女性には特別の思い入れがある家具なのだろう。日本のモノで言うと、形は「長持ち」、嫁入り道具という意味では「総桐(そうぎり)のたんす」に当たるのかもしれない。
たぶんそれほど高価なモノではない、一種の郷愁のある民具である。大阪の国立民族学博物館のヨーロッパ展示室に、それがやはり何気なく展示されている。
奈良・東大寺の正倉院には聖武天皇の時代のモノが数万点収蔵されている。そのモノ群から、私たちは当時の宮廷生活をかなりリアルに知ることができる。しかし、現在の私たちの日常生活を、後世の人たちは正確に研究できるだろうか。
私たちを取り巻くモノはほとんどが大量生産の製品で、どこの家にも似たようなモノがある。製品は実に目まぐるしく変化し、絶えず新しいモノに置き換えられている。現在あるモノの組み合わせは、数か月後には確実に変わっている。
私たちは個々の製品の変遷について各メーカーが製品サンプルを一つぐらい残していると思いがちだが、製造した製品の記録さえ古いものは残していないのが実情だ。従って、もし10年前の家庭の物質文化を研究しようと思っても、ほとんど不可能である。
その不可能を一部可能にしているのが千葉県の松戸市立博物館だ。そこでは昭和37年当時の「あこがれの団地家庭」のモノを一軒分、見事に再現・展示していて感動的である。当時のモノを集めるにはさぞ苦労があったことだろう。
国立民族学博物館の栗田靖之教授は、将来の物質文化やデザインの研究者のために、毎年あるいは数年おきに家庭の生活財をワンセット買い込んで残していくべきだと提唱しておられる。大賛成である。民博で無理なら、新たに現代生活財博物館を作ってでも、それを実現すべきだろう。
千葉県の松戸市立博物館が再現した昭和37年当時の「あこがれの団地生活」を見ながら、最近実施した生活財と家庭景観の調査の結果を頭の中でダブらせて考えた。一つ一つのモノのデザインは、今日の方が確かに洗練されている。しかし全体としての家庭景観は、基本的に変わらない。
都市計画家の大塚洋明氏は、「あこがれの団地生活も、本質的には住宅難時代の緊急難民収容住宅だった。それが今日もあまり改善されないままスタンダードとなっている点に問題がある」と述べている。
かつて繁栄をおう歌した国々は、その最盛期には生活全体にある一定の美の様式を築いてきた。日本は今年、国民一人当たりの国民総生産(GDP)が初めて世界第一位になった。その日本が世界に誇れる生活美の様式を国民的に作り出したと言えるだろうか。
狭い住宅に無反省に大量の生活財を導入するのは確かに問題である。しかし、基本的に都市の住宅は狭すぎる。土地を、住むためのスペースと考える前に、資産だとか担保物件だとかいう役割を負わせすぎたために、こういう不幸なことになってしまった。
まず住宅供給のシステムを考え直し、日本の都市住宅のスタンダードを向上することが必要だ。その上で「招客」など、家庭景観が他者の目にさらされる契機を作り出せば、いずれは「現代日本様式」とも呼ばれるような、新しい生活美の様式が生まれるはずだ。
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